2018年11月18日:成長と我慢

こんにちは。
株式会社シグマライズ、社長の斎藤です。

先週ひいた風邪がやっと治ってきました。体調が悪くなると、気分的にも落ち込んでくるので体調管理をしっかりやらなければいけないな。とあらためて思わされる1週間でした。

急に寒くなってきたので、コートを出したりスーツを冬の物に変えたり、暖房をつけたりと風邪をきっかけにいろいろ変化がありました。もう11月も半ばなのであっと言う間に今年も終わりそうです。2018年悔いの無いように残りの1ヵ月半を過ごしたいと思います。

さて、今回のブログテーマは、『成長と我慢』です。

一般的に、成長するためには、大変なことを乗り越えなければならない。我慢しなければならない。と言われます。成長と我慢や忍耐は一体として考えられることが多いように思います。

自分の過去を振り返ってみても、自分が成長したな。と思える時には、必ず何かしらの困難があったように思います。成長とは、簡単に言えば、「出来なかったことが出来るようになること」なので、出来ないことを出来るようにするために、勉強や訓練が必要になります。そしてその勉強や訓練には我慢や忍耐が必要になることが多いです。

ここで重要なのが、成長をするために我慢や忍耐が必要になるのであって、我慢や忍耐をしたから成長するわけではない。ということです。「出来なかったことが出来るようになること」のために我慢や忍耐をする必要があるのであって、我慢や忍耐をしたからといって「出来なかったことが出来るようになる」わけではありません。

人は生きていく中で教育を受ける機会、教育をする機会が多くあります。自分が教わることもあれば、何かを人に教えることもあります。職業として教育者である場合にとらわれず、多くの人が人に何かを教える教育者になる機会があるはずです。その中で多くの方が教育のためという観点で教育を受ける側に我慢や忍耐を必要以上に要求することがあります。

例えば、その人の成長のためだと言って、仕事上の必要情報を敢えて共有せずに部下に仕事をさせたり、部活動の指導で暴言や暴力を働いたりというのは、成長と我慢や忍耐の関係性を正しく理解できておらず、成長に付随的に発生する我慢や忍耐に注目し、我慢や忍耐をすれば成長するはずだ。という間違った認識を元に教育を行っているケースだと思います。

そのため、そういった対応が問題になっても教育者は「その人の成長を思って、そういう行為をした。」「その人の成長に必要と思った」と言い、相手のことを思ってとった行動なのだから自分の行為は正しいはずだ。と主張します。それは嘘を言っているわけではなくて、本当にそれが相手のためになっていると思っての発言なのだと思いますが、前提として「成長と我慢」の関係性に気づいていないように思います。

自分が教育を受ける側になった時に、なかなか教育を受ける側から教育者側に教育方法について注文をつけることは難しいものです。ただ、教育を受ける側であっても、教育者側が「成長と我慢」の関係について正しい認識に立っているか、俯瞰的に考えてみた方が良いと思います。教育者が正しい認識に立っていないと思えるのであれば、まずは、自分の成長(「出来ないことができるようになる」)に着目して、成長のために必要な情報や経験が分かるのであれば、それを教育者側に提供してもらえるように働きかける必要があります。

また、自身が教育者側になった時には、我慢や忍耐によって成長をさせようとしていないか。教育を受ける側を成長をさせるために一番有効な教え方は何か、我慢や忍耐の提供を抜きにして考える必要があります。

何かを教えようとするときに、教育を受ける側に必要以上に我慢や忍耐を強いるものであれば、教育の効果が高いはずがありませんから、教育方法を見直す必要があるはずです。

我慢したら報われる、忍耐したら成長できる。といった価値観が日本の社会ではまだまだ広く受け入られれているように思います。成長の過程で我慢や忍耐は付随的に発生するもので、無くなることはないですが、我慢や忍耐それ自体を良いこととして他人に強いていく社会は良い社会ではないと思います。

自分が教育を受ける時、誰かに何かを教える時、「成長と我慢」の関係性について注意して行動を選択すると、より良い生き方ができるような気がします。

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